「水晶の舟単独公演 <UNDERGROUND SPIRIT Ⅷ - 月光>」 (吉祥寺シルバーエレファント/2017年5月11日 満月の日、水晶の舟ワンマンライブでは曲の前後に即興が入った五曲が演奏された。
《届かぬ底へ》《月の光》《瞳の泉》《おまえの涙》《チェリー》。フライヤに記されている詩を引用する。 「月よ おまえはあたたかい おまえのあかりは私の心を照らし 光の道はのびて やがて夢のなか」。 メンバーは、紅ぴらこ G.Vo /影男 G /松枝秀生 Ba /原田淳 Drsである。 原田による点描的なマレットの演奏で、ライブが始まる。 影男はスクラッチを、松枝は断片的な旋律を、ぴらこが鈴を鳴らしながらギターを演奏し歌を歌うことによって、曲が形成されていく。
ぴらこのギターの音は、柔らかい影男のそれに比べて鋭い。 「暗闇を掻き分けて」…。 水晶の舟の演奏は極めて文学的でありながら、現実を垣間見せていく。 この音楽の本質は何か。 私は批評者として、どのように斬り込んでゆけばいいのか。
そのようなことを考えているうちに、演奏のリズム、フレーズ、それらを構成する原初的な最小限の音の粒の単位が、一つ一つと必然に満ちていく。 偶発的な要素はない。 リミッターをかけていないのに制御される。 一曲目が終わった気がする。 ぴらこは笛を吹き、トライアングルを叩く。 影男と松枝はフレーズを反覆させる。 原田はフリーフォームにドラムを奏でる。
私がここに画く批評を読んで、この場に立ち会った方々が満足するのであろうか。 居なかった方々に、次のライブへ足を運んでいただける手助けができているのか。
水晶の舟を知らない方々、アングラを知らない方々に。
曲は《月光》となる。 「お前の灯に私の心を揺らす」…。
ぴらこは歌いながら貝殻のようなパーカッションを鳴らす。 ドラムの細かいフレーズに、ギターとベースが乗っていく。 「月夜のお前は丸くて」…。 限りなく柔らかい曲の中に、圧倒的に芯が存在する。 以前の評で水晶の舟には陶酔がなく覚醒あるのみと書いたことを自分で思い返す。 もう三曲目になったのであろうか。
影男のアルペジオとぴらこの単音が絶妙に交じり合う。 原田は的確に刻み、松枝もまたアルペジオ的奏法を試みている。 「月に照らされて」…。 影男が歌う。 誰も余計なことを一切しない。 抑制、制御「されている」のでは決してない。 演奏者の心が落ち着き、無駄がない状態が持続するのだ。 「何ていい気持ちの、いい月なのだろう」…。四曲目が始まる。
総ての曲がミドルテンポであったとしても、印象がまるで異なる。 各曲に対する演奏の愛情とアプローチが自在である為だろう。 「濁流の中に真実がある」。 これは水晶の舟の詩だろうか、私が演奏を聴きながら書き綴った一節であろうか。 区別が付かなくなる。 アルペジオ、ストローク、アタックと、総ての演奏が溶解していく。
我々は何を忘却し、何を記憶するのか。 我々は覚醒したまま解放される。 日々の暮らしから、この時代の閉塞感から、これから訪れる地獄から。 水晶の舟は特別なテクニックを使わない。 使わないからこそ、我々の生活に共鳴し、非現実ではない事実を共有することが可能となる。 五曲目になったのか。我々は常に追いこまれている。
何を理解しろというのか。 何を解析せよと。 真実の扉は直ぐ目の前に存在する。 G・デットの扉は天国に通じていると誰もが信じていたが、そこは灼熱の煉獄であった。 水晶の舟の扉は、我々自身に繋いでいる、 東洋人のロックなのか。絡まった紐を解くこと。それは理解でも解析でも興奮でもない。 インド音楽のラーガは「心を彩るもの」と訳される。
それは祈りでもあろう。 神の為の祈りではない。 祈りという単独の行為と、水晶の舟の演奏は限りなく近い。 ここで「歌うこと」が「呼吸する」という行為であるとすれば、「精神的なこと」は行為に還元される。抽象的会話と精神的行為の融和は、合理主義に対する最終手段になるのかも知れない。 「こんなところにいたの?」。 過去が召喚される。 死を思い起こすこと。 無常の世界。
生の喜びよりも、死とは楽か、辛いのか。 死の喜びもあろう。 あの頃何故自分を知らなかったのか。 それは死が必要とされていなかったからなのか。 死に近づいているかより、人間は活気などだと思っても、代わりはない。 手と眼が動く限り、絵は動いている。 喋っている限り、文字があろう。 聴こえている限り、音が鳴っているのである。
いつしか曲は終わり、音が止み、110分のライブが終焉する。 私は覚醒しながらも、陶酔していたのかも知れない。 陶酔の果てに、覚醒があったのか。 水晶の舟のワンマンライブは、個人が個人に還っていく機運が齎されている。 (宮田徹也/京都嵯峨美術大学客員教授) |